総合人間はねたとも

京都大学総合人間学部生が送る、総合人間になるまでの軌跡

『凪に溺れる』を読んで

憧れ、夢。

十太が見つめた水平線の先は僕にはまだ無い。

いや、正確には昔あった。お医者さんになりたいだなんて、そんな夢があった。

でも、徐々に減衰して、高3の夏に僕は舵を切って背を向けた。

決して諦めた訳では無い。自らの気持ちに従い、自らの手で、標識も何もない自由の海へと飛び込んだまで。

葛藤の先に選び、勝ち取ったこの大海原で、浮きつ沈みつ、それでも進み続けて、進路を徐々に絞りながら、変えながら。

命には終わりがあるし、自立の刻は近づいている。いつまでもこんなことをやっている場合では無い。でも今は思う存分大冒険するんだ。

いつかそんな大冒険の中で憧れや夢を抱き、強い予感を持って、遠くを見て大きくアクセルを踏み出す時が来るかもしれない。そんな予感は大きな流れの中で徐々に失われていくだろう。諦めざるを得ない時もある。

 

けれど失われたものたちは、埋まらない空白としてこの身とともにあり続ける。消えない胸の疼きが、自分を生かし続けていく。

 

確かに感じた強い波も凪ぎ、いつの間にか凪に溺れてしまうことだってきっとある。それでも、過去に感じた事実が、進む意味が失われても尚残る渇きがあるおかげで、前に進むことが出来る。『凪に溺れる』のような、遠くを見つめながら藻掻き続ける姿、歌なんかもエンジンオイルになってくれるだろう。

前へと進み続けた天才十太と、その天才に翻弄されながらも藻掻き続ける人達。そんな彼らを見ていると、何かを追いかける営みの尊さを感じ、大海原を進む勇気をもらうことができた。

 

十太の奏でるギターに釣られ、今日も免許合宿先で満点の星空の下、ギターを響かせているのはまた別のお話。

 

凪に溺れる

凪に溺れる

  • 作者:青羽 悠
  • 発売日: 2020/07/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

著者の青羽悠さんは僕と同じ総合人間学部の先輩。会いたい。

【京都嵐山オルゴール博物館】心を弾くオルゴール

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 夏である。

 梅雨が明けた爽快感そのまま、僕は嵐山へと足を伸ばした。渡月橋天竜寺の枯山水、竹林の小径。良い心のお洗濯になった訳だが、京都嵐山オルゴール博物館が何より素晴らしかった。オルゴールと聞くと、ゼンマイを回せば音楽が鳴る小さな箱を思い浮かべる人が多いのではないか。もちろんそれもオルゴールなのだが、実はオルゴールにはもっと様々な種類があり、そこには興味深い歴史と示唆があった。今回は豊穣なオルゴールの世界と京都嵐山オルゴール博物館の紹介、そこで得た気づきを記したい。

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オルゴールの始まり

 18世紀後半、スイスの時計職人が時計にアラーム機能をつけるため、時計の内部に音楽を再生する装置を発明した。これがオルゴールのはじまりである。その後、煙草入れや羅針盤などの贅沢品の内部にさらにオルゴールが入った、富と権力の象徴として世に売り出された。オルゴールは当初お金持ち中のお金持ちしか味わえない代物だったのだ。技術の進化とその人気ぶりから徐々にオルゴールは音楽再生機器単体として製造され始める。

オルゴール全盛期

 穴の空いた円筒が回転して音を鳴らすシリンダーオルゴール、円盤が回転して音を鳴らすディスクオルゴール、人形にオルゴールが入り音楽に合わせて動き出すオートマタオルゴール。実に様々な種類のオルゴールが世に出された。当時の技術力は凄まじい。無数の小さな穴が手作業で空けられているのはもちろんのこと、自動で円盤が入れ替わることで長時間の演奏が可能になったディスクオルゴールや、まるで人間のようななめらかな動きでピエロがサーカスをしながら音楽を奏でるオートマタオルゴールなどはまさに圧巻である。ぜひ博物館の実演を見て欲しい。

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全てオルゴールである

オルゴールの衰退

 オルゴールはバーやレストランのBGMとしても使われ始め、18世紀後半に最盛期を迎えた。その後エジソンが発明した蓄音機との競争に敗れ、コストがかかるオルゴールは衰退していく。現在その存在感は小さいが、一部の愛好家に親しまれたり、最新の曲が鳴る小型のオルゴールが製造されたりしてはいる。最盛期の技術は今では再現できないものも多いという。時代は進み文明は進化したというのに技術が退化してしまったというのは興味深い。

 オルゴールは教えてくれる

 オルゴールは金にならなくなった。文明の波に呑まれ衰退していったオルゴール技術。これはオルゴールに限ったことではないように思える。スマホ・pcの普及により書けなくなっていく漢字だってそうだ。文明の進化とともに消えゆく技術。そうした技術はやがて博物館に並ぶだけのものになっていく。文化もそうだ。文明は大量に皆に届ける方向へと進んでいく。文明の進化とグローバル化に伴う均質化。文明の進化が絶対悪だなんて思わない。ただ、お金になる方向へ、文明が指し示す方向へ、何も考えずに流されていては、何か大切な人間らしさの喪失が待っているように思える。幸せとは何なのか。幸せに感じる仕組みは究極的に言えば脳内物質の伝達である。しかし脳に電極を当てて感じる「幸せ」は幸せなのだろうか。幸せに至るプロセスもまた幸せの重要なパーツなのではないか。文明がくれた自由を、大企業が仕組んだ時間消費マシーンに費やすのではなく、文化を楽しむ時間に使ってみよう。流れる時代の中で一旦立ち止まって自分の幸せについて考える時間を作ってみよう。オルゴールを飛び越えて様々なことを考えさせられた、京都嵐山オルゴール博物館での体験であった。オルゴールは僕の心を弾いてくれた。

死が照らし出す今を踊り狂う

総人死のブログリレー

 最近総人でブログブームが巻き起こっている。ブログというやらなくてもいいタスクは後回しになりがちで、ネタだけが溜まる毎日。そんな中、総人ブロガーが軒並み死について書いている。

note.com

note.com

note.com

kadosawabashi.hatenablog.com

 結局こういうのはノリと勢いである。まだ課題は終わっていない訳だが、総人死のブログリレー、総合人間はねたとも参戦!!

 

あなたは今、死ねるか。

 ほぼ誰もが死にたくないと、そう答えるだろう。なぜだろうか。

 死後の世界は死んだ人にしか分からない。死んだ人は生きている人と会話ができない。生きている人は死んだ人の亡骸を見ることができるだけだ。そして今のところ死者蘇生の魔法は存在しない。片道切符の未知の世界なんて怖いに決まっている、だから死にたくない。なるほど納得できる話だ。

 しかしもっと単純に、生に未練があるから、人生を満喫しきれていないから死にたくない。これが死にたくない大きな理由の1つではないか。

 僕は何度か身近な死の経験をしてきた。幼い頃、曾祖父が亡くなった。亡くなる前にお見舞いに行き、氷を口に入れたり、会話したりしたのだが、2週間後、そこに曾祖父の姿は無かった。御年96の大往生であった。また、中学生の時、同級生が病気で亡くなった。あまり関わりがある訳では無かったが、この年で亡くなることがあり得るのだという衝撃は今でも忘れられない。そして高校生の時、祖父母の飼い犬が亡くなった。祖父母とは関わりが深く、幼い頃から犬と遊んでいた。もう徐々に体が衰えているのが目に見えていたので、予期された死であった。

 大体予測できる死、突然迎える死。死の種類は様々だ。周りの人が亡くなるのは悲しい。僕は確かに身近な死を体験したが、例えば両親や祖父母、親友といったもっと関わりが深い人の死を前にして正気でいられる自信はない。だが、死は今を照らす光だ。無限の諭吉に価値が無いのと同じように無限の生に価値は無い。死があるから限りある生を、今を大切にすることができる。SEKAI NO OWARIの「不死鳥」という曲は詩的にこの事実を伝えてくれる。

 

死がくれる世にも美しい魔法

今を大切にすることが出来る魔法

神様私にも死の魔法をかけて

永遠なんていらないから終わりがくれる今を愛したいの

 

不死鳥のように美しい君にいつか終わりが訪れますようにと

形あるものはいつかは壊れるから

僕は君の手を強く繋ぐんだ

 

 

 人類の「僕」が不死身のロボットである「君」に恋をし、最初は「君」との永遠の生を望むも「終わりがくれる今」の価値を知り、「君」の終わりを望むストーリーとなっており、死の価値を僕たちに語りかけてくれる。ぜひ聴いて欲しい。

 そうは言っても死が怖い。僕たちはどうすればいいのか。死が照らす今を踊り狂うしかないのだ。死に限ったことでは無いが、未来は誰にも分からない。もしかしたら10年後、1年後、ひょっとすると明日死ぬかも知れない。だが分からないことにずっと怯えていても仕方が無い。これは未来への期待や不安にも当てはまる。幸せになるために生きる、将来何になりたいか分からなくて不安でたまらない、これらは存在しない未来に焦点を当ててしまっている。未来に焦点を当て続けて生きた先に終わりが来てしまうことの何と愚かなことか。無い未来を期待して、不安に思って今を蔑ろにして、そんな人生死んでも死にきれないでは無いか。過去に関しても同じだ。過去は過ぎ去った。過去に何があろうと「いま・ここ」には何も関係が無い。人生とは連続する刹那である。死がくれる掛け替えのない今を味わい切っているならば、僕は生ききった、出し切ったと自分の人生に納得し、安らかに死ねるのではないか。確かにまだまだ僕にはやりたいことがたくさんある。そして未来にどうしようもなく不安になったり、日々を惰性で生きてしまったりもする。でも、僕はこの人生哲学を得てから死ぬのが少し怖くなくなった。生きるのが楽しくなった。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 この人生哲学、いや僕の今の価値観はこの「嫌われる勇気」に大分影響を受けている。もしも人生に迷っている、今の話に興味がある人がいたらぜひ読んで欲しい。

 

 死は今を強烈に照らしだしてくれる。自分自身の焦点も今に強く当てて、踊り狂おう。今を、生きよう。

9年紙につぶやいていた男、Twitterを知る 後編

※この記事は後編です。前編はこちら

hanetatomo-sojin.hatenablog.com

 

この後編では、9年紙につぶやいてきたコロナ禍新大学1年生の視点で、Twitterについて語る。具体的には、

Twitterを始めて感じるメリットデメリット

を踏まえて

②紙の「つぶやき」とTwitterとの比較

からより良いつぶやき道を模索する。 

 

・あなたとTwitterの関係について考えるきっかけ

・新大学生がTwitterを始めるかどうかの判断材料

・紙の「つぶやき」との比較からTwitterを考察するという新感覚の読み物

・はねたともの独特な世界観 

 

この記事は以上の需要が見込まれる。生活の一部と化したTwitterとの関係を自分が見つめ直したいというのが一番の動機ではあるが、読者にとって何かしら有意義な点があるはずだ。たぶん。

 

Twitterを始めた経緯

まずはそもそも僕がTwitterを始めた経緯について書く。

晴れて憧れの京大総合人間学部に合格するも、時代はコロナ。情報、交流が不足していた。Twitterはその両方を解決する素晴らしいツールだと思った。だが、自分は凝り性で、紙の「つぶやき」ですらハマってしまうのだから、Twitterなどという刺激物に手を出したら即座にツイ廃と化してしまうのではないか。そんな疑念と新しい物への畏怖が僕をTwitterから遠ざけていた。しかし、Twitterについて調べていると、どうやら情報発信力が身につくらしい。これは魅力的である。今や大発信時代。情報発信力は身につけるに超したことは無い。それに物は試しである。勇気を振り絞り、Twitter界へと足を踏み入れた。4月6日、約2ヶ月前のことだ。

 

Twitterを始めて感じたメリット・デメリット

 次に<受信><発信><交流>の3項目を軸に僕が今感じるTwitterのメリット・デメリットを列挙していく。

メリット

<受信>

・受動的な情報収集

タイムラインから日々受動的にたくさんの情報を受け取ることができる。例えば、美味しいラーメン屋などのリアルな口コミ、身近なライフハック、未知の世界についての啓蒙、災害情報、イベント情報、秀逸なネタツイなど挙げ出せばキリがない。これらの有用な情報を自ら動くこと無く得ることができる。

また、tweetのリプライにおいても受動的に情報収集ができる。例えば、僕は100話もあるスラムダンクのアニメを見ることをTwitterで宣言したのだが、リプライに多くの友人が面白いから絶対最後まで見るべきだと助言してくれた。何か発信したことに対して受動的にフィードバックが得られることがあるのだ。

だが、この受動的な情報収集には勿論デメリットもある。これについては後述する。

 ・能動的な情報収集

Twitterは能動的な情報収集においても有能だ。ハッシュタグで検索したり、勉強や人生についてなど分からないことがあったら「●●教えてください」とtweetすれば親切な人がリプをくれたりする(教えてもらうのは受動的な行為だが、教えてもらおうとするのは能動的な行為だ)。僕も受験生の頃、受験でのリアルな得点の取り方を参考にするため #京大開示祭り と調べては得点開示画像を漁りまくったものだ。これに関しては一応アカウントを持っていなくてもできる行為ではある。

 ・Twitter限定のイベントに参加できる

Twitterをやっていないと出来ないことは意外とある。日々行われるオンライン新歓の情報がTwitterでのみ発信されていたり、サークル入会フォームもTwitterにしかなかったりする。情報を見るだけならアカウントが無くても見れるが、DMを送る必要があるとなるとアカウントが無ければどうしようも無い。また、個人的に今まで一番美味しいと感じた一乗寺にあるラーメン屋、亜喜英の営業情報は鍵つきの店垢(https://twitter.com/eigyoakihide)でしか公表されていない。あと本田とじゃんけんもできる。

 

 <発信>

・アウトプット、自己表現、情報発信

得た知識をTwitterでアウトプットすることで、皆と共有できる上に自らの血肉になる。日常の何気ない一瞬の出来事や気持ちを表現することで、日々を大切にでき、自らの言葉で捉えることができる。素人でも何かしら有益な情報を発信でき、その経験を積み重ねることで文章力が磨かれ情報発信力が身につく。

 ・行動力が上がる

Twitterにアップすることが一つのモチベーションになり、行動力が上がる。これはTwitterを始める前は思いも付かなかったメリットであった。もし失敗してもむしろそっちの方が格好のネタになる。実際僕はTwitterを始めたことで以前より行動力が増したように感じる。

・宣言による追い込み

これは以前何かの拍子にメディアで見たメリットである。Twitter上にあらかじめやる事を宣言することで自分に逃げ場を無くすことができるのだ。実際やってみると効果覿面。よく「●●しばく」と宣言しては自分を追い込んでしばきまくっている(「しばく」とはタスクを終わらせることを意味する)。実は今も「ブログ書き終わるまで寝れまテン」と宣言して自分を追い込んでいる最中であり、現在午前4時半である。

 

<交流>

 ・物理的に離れた高校の同級生と繋がる

 SNSの醍醐味であろう。物理的に離れていても日常を表面上でも知ることができるし、リプで交流することもできる。

・同じ学部、大学で繋がる

コロナ禍においてこれ程ありがたいことは無い。直接接触せずとも情報を共有し合ったりリプを送ったりして絡むことができる。Twitterがきっかけでリアルで会うことも多い。

・趣味で繋がる

僕はあまり活用していないが、共通の趣味を持つ人間と物理的な距離を超えて気軽に交流できるというのは素晴らしいメリットだ。

・リアルで会う時、tweetが話題になる

自分/相手/他人のtweetを元に話を展開することができる。京大生のほとんどはTwitterをしており(ガチである)、ブラウザから閲覧している人もいるので、話題としては超一級品。

「この前tweetしたラーメン、めちゃくちゃ美味しいんだけど今度行ってみない?」

「お前がtweetしてたラーメン、めちゃくちゃ美味しそうだよね、今度行ってみない?」

「○○がtweetしてたラーメン、めちゃくちゃ美味しそうだよなー、今度行ってみない?」

 I/you/(s)heの三段活用を以てすれば怖い物なしである。

 

デメリット

今後の自分なりの解決策とともに記す。

<受信>

・タイムラインを特に意味も無く見過ぎてしまう

・不幸/ネガティブtweetを見てテンションが下がる

受動的に情報が入ってしまう負の側面である。特にタイムライン(TL)で時間を溶かしてしまうのは非生産的で大変無駄である。4月5月は本当にこれにやられた。今も時間を溶かしてしまうことがある。これは甚大なデメリットである。確かにメリットに挙げたようにTLには有用な情報もたくさんあるが、明らかにこちらのデメリットの方が重大で、TLなど自分がtweetする時にチラッと見るぐらいで充分である。そこで編み出した解決法は、「TLを見る前にパームカール*1をする」である。パームカールとは、上腕二頭筋を鍛えられるどこでもできる気軽な自重トレーニングであり、すなわち筋トレだ。悪い習慣を断ち切るためには何か別の行動に置き換えよというメンタリストDaiGo先生の教え*2をヒントに編み出した。TLを見るハードルを上げることで、惰性で眺めてしまうのを防ぐ効果が期待できる。

 

<発信>

・いいね!数を気にしすぎる

「いいね!」する時の判断基準など大概適当なのだから、貰ったらちょっと嬉しいくらいの心構えを大切にしよう。

 

 

紙の「つぶやき」との比較

ここまで長々とTwitterのメリット・デメリットを述べてきたが、お待ちかねの「つぶやき」との比較に入る。

大前提として「つぶやき」はオフラインある。そのため「つぶやき」に<受信>機能は一切無いし、他人の目を気にすることも無く、いいね!の数といった客観的指標に晒されることもない。情報を発信する力も皆無。よってここに挙げたメリット・デメリットのほとんどが当てはまらない。だが、世間体を気にせず好きなことを好きなだけつぶやけることは1つ大きなメリットだろう。また、紙が燃えない限りログが一生残ることも「つぶやき」独自のメリットだ。Twitterは過去3200件までしか辿ることはできないらしい上、いつサービス終了するか分からない。そのため「つぶやき」は、思い出として残るようなことや、どうでもいいまたは公開したくないことをつぶやきたい時に使うのが良いだろう。ノートと鉛筆と時計を用意せねばならず手間がかかるため、普段使いには適さない。

対してTwitterは使っている技術が高度である。相手が紙と鉛筆な時点でエベレストと大文字山を比べているようなものだが、やはりそうだ。そのため前述したようにメリット・デメリットともに多く存在する。しかし、得られるメリットはとても有効で、特に情報が欲しい新大学1年生、さらに情報、交流共に不足するコロナ禍においては神のような存在である。デメリットへの対策をしっかりと練った上で積極的に使うべきだろう。

僕は1人だけの世界であった「つぶやき」に9年も籠もっていたのもあり、洗練されたネタツイートをひたすら投稿するプロのツイッタラーにはなれなさそうだ。よってこれまでの考察を踏まえて次のようなことをTwitterに上げていきたい。

・知識のアウトプット

・自己表現

・ブログの宣伝

・宣言

そしてTwitterを通した交流も程々に行い、TL中毒にならない為にTLを見るときは筋トレしようと思う。

 

 

高度でデジタルなTwitterに自分が使われないよう対策を練りつつ、時にアナログな「つぶやき」を使い、賢くつぶやきながら、これからの道を歩んでいこうと思う。

 

こうしてはねたとものつぶやき道は、10年目へと突入していくのであった。

 

 

 

9年紙につぶやいていた男、Twitterを知る 前編

つぶやき歴9年、Twitter歴2ヶ月。今回はそんな謎の男が、Twitterを語る記事の前編、僕のつぶやき史について書く。

それは小学4年生の時だった。どこかでTwitterでつぶやく人々の存在を知った僕は「つぶやき」を始めた。紙で。

そこはいいねもリツイートも無い世界。消したければ消しゴムでツイ消し、否つぶ消し。

その1年前から僕は自分のノートを持っていた。その名も「マイノート」である。それは先生が皆に作らせたいわば「自分帳」で、何かの感想を書いたり、日記を書いたりする何でも書けるノートであった。しかしその後マイノートは独自の進化を遂げ、僕の幼少期に多大な影響を及ぼすことになる。このマイノート、実はまだ実家に眠っており、現在下宿先に持って来ようとしている最中でる。届き次第別記事でじっくり語る予定だ。とにかくこのノートを使って、僕は「つぶやき」を始めた。

具体的にその「つぶやき」とは何か。実際の画像は下宿先に届き次第お送りするとして、テキストで紹介してみる。とは言っても形式は至って単純である。日付と時刻と共にひたすらつぶやくだけだ。紙と鉛筆で。

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ジャポニカ学習帳の科目シールを集め、その顔シールをスタンプ代わりに貼っていた

では実際何をつぶやいていたのか。

授業や勉強、遊び、スポーツの試合、テレビ番組、遠足、旅行、合格発表・・・。それらに臨む気持ちであったり、得た気づき、その場の感想などをつぶやいた。いわば実況である。全てが終わった後に回顧し、書くことを一つに絞りがちな感想文とは違い、リアルタイムで素の思いを書き綴った。ちなみに大晦日紅白歌合戦を実況しながら行われる「大晦日大大大つぶやき大会」は現在でも慣例的に続いており、今年で10回目を迎える。

完全に思うがままつぶやいていたかと言われるとそうとは言い切れない部分もある。周りの人が僕の「つぶやき」を面白がり、見ていたからだ。やはり見て笑ってくれると嬉しいので、見て面白いような「つぶやき」を少しは意識したし、他人が見て問題が無いようセーブをかける必要もあった。だが、見せる人を自分で選択でき、拡散されたとしてもせいぜいクラス内であるため、炎上するリスクは0に近く、比較的自由につぶやくことが出来た。言わば究極のカギ垢である。

またいいねやリツイートの数といった客観的な指標が存在しないため、大して意味の無いこれらの数に一喜一憂することがなく比較的純粋につぶやくことを楽しめた。

思うにこの「つぶやき」はネットリテラシーが無いこどもでも気軽にできる自己表現の場なのではないか。この世界や自分の気持ちは、言葉という分節を与えて初めて捉えることができる。それは如何にも人間らしい営みで、誰しもが欲する行動であり、どんどん複雑化する社会において必須のスキルでもある。僕は「つぶやき」をしていると本当に楽しくて、あっという間に時間が過ぎていった。

そしてその自己表現は紙が燃えない限り残る。一瞬一瞬の心の記録をいつでも読み返すことが出来る。これはかけがえのないことではないか。小学生や中学生の時に何をし、何を思っていたのか。それをいつでも振り返られることはこの「つぶやき」をしていて一番良かった点である。

ここまで文章を読んでくれたあなたは何を思っているだろうか。変人に寛容であることで有名な京大生なら純粋に面白いと受け止めてくれる人もいるだろうが、大半の人は「こいつ、ヤバい」と思うことだろう。確かに時計を見ながらノートに日時と「つぶやき」を真剣に書き込む様は我ながら異様であり、陰気なように感じられ、また誰もやろうとはしないため、何となく「ヤバい」し「キモい」ことだろう。事実、中学校2年の時、盛大に馬鹿にされ、気持ち悪がられ、「つぶやき」をすることもマイノートを書くことすらも控えるようになった。もしも僕が絶対的な価値観を持ち、自信を持って「つぶやき」をしていたのならば、徹底的に反論し我を貫いていただろう。しかし、今も抜け切れていないが、僕には承認欲求があり、他者の中に生きていた。人に否定されるのが辛かった。

しかしよく考えてみれば誰にも害を与えていないし、本当に良い自己表現の場であったと思う。ぜひ皆さんもこどもが産まれたら「つぶやき」をおすすめして欲しい。そして「つぶやき」をしている人がいたら優しく見守っていて欲しい(いない)。

さて、「つぶやき」とは何か、ご理解いただけたであろうか。もはや書きながら自分で理解している側面の方が強いが、それも文章を書くメリットである。もしもこの奇妙な「つぶやき」史があなたの心に何かを響かすものであったならとても嬉しい。

次回はこの「つぶやき」とTwitterを比較し、かつてない切り口から考察を深めていく。

【Twitter】初バズり体験記

ネパール人に話しかけたら自宅でカレーを食べないかと誘われました。京都怖い。

こんにちは、はねたともです。

 

バズりました

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大学生になりTwitterを始め、楽しくTwitterライフをしていた訳なのですが、意図せずバズってしまいました。

 

内容は京大の物理の講義で出された、「問題が分からなかったら降参してエッセイ書いてね」という衝撃的な課題。大笑いしてtweetしたら皆も大笑いしてくれたようです。

 

 

果たしてこのtweetは何回見られたのでしょうか。

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50万回・・・!

冷静に考えて50万人の人々に自分の投稿したものが見られるって凄いことですよね。インフルエンサーならともかく名も無い1大学生の投稿がこんなにもたくさんの人に見られ得る。Twitterこええ、すげえ。

 

参考までに普段のtweetのインプレッションも。

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徹夜レポートのお供にMARIEビスケットを食べただけのtweet。需要0。バズtweetの1000分の1しか見られていない。

 

 

リアル「通知止まらないんだけどwww」も経験。通知自体は切っていたんですが、Twitterのベルが確認してもしても鳴りまくる。キュルキュル増えるいいねの数。なんだかずっとソワソワする。

 

 そして友達からの「お前めっちゃバズってんじゃん」LINE。返しは「通知止まらないんだけどwww」。一生に一度はやってみたかった。

 

 

結局課題はどうしたのか。 

問題が分かっても降参してエッセイ書くつもりだったけど、普通に分からなくて降参。ノリノリでエッセイを書き連ね、気付いたら1500字に。あれ何の授業だっけ・・・。

 でもエッセイ書いてる僕、もの凄く活き活きしてた。最近心理学ゼミの自己分析レポートを毎週書いているんだけど、その時も最高に楽しい。

でも皆がそうかと言うと多分違う。これは才能なのではないか?

そして他人の人生から学べることはきっとある。ブログなら、思う存分自分語りできるし需要もあるはず。そんな訳でその日のうちにブログ、始めました。

早速バズtweetにありがちなリプの宣伝を使ってブログを宣伝。始めて丸1日の内に300PVを達成。あれ、効果抜群なんだなあ。

 

これからも需要と自己満足のバランスを見極めつつ、マイペースにやっていきます。

 

それでは~

自己紹介

はじめまして!

 

京都大学総合人間学部1回生のはねたともと申します。

 

中高一貫男子校出身です。

男女比10:0の世界を生きてきました。同級生に女子がいますね。不思議だなあ。

 

趣味についても書こうと思います。

文章を書くのが好きです。

中学高校はハンドボール部でしたが、大学になってギターを始めました。きらきら星なら弾けます。

アニメはそこそこ見ます。

 

え、そんなことはどうでも良い?

 

 

「総合人間学部って何ぞや・・・?」

 

 

知っていますよ。あなたの考えていることはお見通しです。

この問いに関しては、別で詳しく記事を書きたいと思います。

僕も完全には分かっていません!

 

ざっくり言うと、色々勉強して、皆と話し合って、自分の行く道を決めていこう!っていう学部です。

これからおそらく1万回は聞かれるので、ちゃんと自分なりの答えを用意したいところ。

 

僕は将来やりたいことを決めずにこの学部に入りました。

でも考えなかった訳じゃありません。むしろ人一倍悩みました。悩んで悩んで、大学でまたさらに悩む選択をしました。

 

そもそも高校生程度の人生経験で将来の決断をするのは難しい。

しっかりと根拠を持って選択できた人は本当に素晴らしいし、尊敬しています。

 

でも、この学部は悩める子羊達にぴったりです。

文系も理系も入ってしまえば同じ学部!クレイジー

僕はそんな学部を見つけ、入学できたことを誇りに思っています。

 

このブログを始めた動機

受験期、僕は色んな大学生ブログを漁りました。まず勉強法がサッパリ分からず、手当たり次第実際に受かった人の勉強法をブログから吸収。京大総人に志望を決めてからも未知の大学生活を知りたくて京大生ブログを見まくりました。

時間を使いすぎたかもしれないけど、勉強になったし、受験のモチベーションにも繋がった。だから自分もそんな受験生に向けた情報を発信できたらなと思うのです。受験勉強についてはもう大分忘れてしまっているのであまり書く予定はありませんが。

 

また、僕にはどうやら独特の価値観があるような気がするのです。大体、総合人間学部などという得体の知れない学部に入ってしまっている時点でお察しです。周りにとって未知の世界の情報は一般にも価値あるものなのかなと思います。

 

あとは単純に自分のため。

まず文章を書くのが大好き。せっかく時間があるなら文章を書きまくりたい!

自己表現も大好き。自分語り、最高!

そして大学生になってTwitterを始めて気付いたアウトプットの重要性。何か知識を得たり、心を動かす出来事があったとしても、悲しいかな大抵3日で忘れてしまいます。でもアウトプットをすることで後で見返せるし、情報が整理されて、自分の血肉になる。

あわよくばアフィリエイトで稼げたりしないかなとかとも思ってる。これはちょっと様子見。

 

 

こんな感じで、大学生ブログ、始めました。

ぜひ生暖かい目で見守っていただけたらなと思います。

 

それでは~