総合人間はねたとも

京都大学総合人間学部生が送る、総合人間になるまでの軌跡

死が照らし出す今を踊り狂う

総人死のブログリレー

 最近総人でブログブームが巻き起こっている。ブログというやらなくてもいいタスクは後回しになりがちで、ネタだけが溜まる毎日。そんな中、総人ブロガーが軒並み死について書いている。

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 結局こういうのはノリと勢いである。まだ課題は終わっていない訳だが、総人死のブログリレー、総合人間はねたとも参戦!!

 

あなたは今、死ねるか。

 ほぼ誰もが死にたくないと、そう答えるだろう。なぜだろうか。

 死後の世界は死んだ人にしか分からない。死んだ人は生きている人と会話ができない。生きている人は死んだ人の亡骸を見ることができるだけだ。そして今のところ死者蘇生の魔法は存在しない。片道切符の未知の世界なんて怖いに決まっている、だから死にたくない。なるほど納得できる話だ。

 しかしもっと単純に、生に未練があるから、人生を満喫しきれていないから死にたくない。これが死にたくない大きな理由の1つではないか。

 僕は何度か身近な死の経験をしてきた。幼い頃、曾祖父が亡くなった。亡くなる前にお見舞いに行き、氷を口に入れたり、会話したりしたのだが、2週間後、そこに曾祖父の姿は無かった。御年96の大往生であった。また、中学生の時、同級生が病気で亡くなった。あまり関わりがある訳では無かったが、この年で亡くなることがあり得るのだという衝撃は今でも忘れられない。そして高校生の時、祖父母の飼い犬が亡くなった。祖父母とは関わりが深く、幼い頃から犬と遊んでいた。もう徐々に体が衰えているのが目に見えていたので、予期された死であった。

 大体予測できる死、突然迎える死。死の種類は様々だ。周りの人が亡くなるのは悲しい。僕は確かに身近な死を体験したが、例えば両親や祖父母、親友といったもっと関わりが深い人の死を前にして正気でいられる自信はない。だが、死は今を照らす光だ。無限の諭吉に価値が無いのと同じように無限の生に価値は無い。死があるから限りある生を、今を大切にすることができる。SEKAI NO OWARIの「不死鳥」という曲は詩的にこの事実を伝えてくれる。

 

死がくれる世にも美しい魔法

今を大切にすることが出来る魔法

神様私にも死の魔法をかけて

永遠なんていらないから終わりがくれる今を愛したいの

 

不死鳥のように美しい君にいつか終わりが訪れますようにと

形あるものはいつかは壊れるから

僕は君の手を強く繋ぐんだ

 

 

 人類の「僕」が不死身のロボットである「君」に恋をし、最初は「君」との永遠の生を望むも「終わりがくれる今」の価値を知り、「君」の終わりを望むストーリーとなっており、死の価値を僕たちに語りかけてくれる。ぜひ聴いて欲しい。

 そうは言っても死が怖い。僕たちはどうすればいいのか。死が照らす今を踊り狂うしかないのだ。死に限ったことでは無いが、未来は誰にも分からない。もしかしたら10年後、1年後、ひょっとすると明日死ぬかも知れない。だが分からないことにずっと怯えていても仕方が無い。これは未来への期待や不安にも当てはまる。幸せになるために生きる、将来何になりたいか分からなくて不安でたまらない、これらは存在しない未来に焦点を当ててしまっている。未来に焦点を当て続けて生きた先に終わりが来てしまうことの何と愚かなことか。無い未来を期待して、不安に思って今を蔑ろにして、そんな人生死んでも死にきれないでは無いか。過去に関しても同じだ。過去は過ぎ去った。過去に何があろうと「いま・ここ」には何も関係が無い。人生とは連続する刹那である。死がくれる掛け替えのない今を味わい切っているならば、僕は生ききった、出し切ったと自分の人生に納得し、安らかに死ねるのではないか。確かにまだまだ僕にはやりたいことがたくさんある。そして未来にどうしようもなく不安になったり、日々を惰性で生きてしまったりもする。でも、僕はこの人生哲学を得てから死ぬのが少し怖くなくなった。生きるのが楽しくなった。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 この人生哲学、いや僕の今の価値観はこの「嫌われる勇気」に大分影響を受けている。もしも人生に迷っている、今の話に興味がある人がいたらぜひ読んで欲しい。

 

 死は今を強烈に照らしだしてくれる。自分自身の焦点も今に強く当てて、踊り狂おう。今を、生きよう。